若干痺れを伴う嫌な目覚め方であった。頭の後ろに鈍器で殴られたような重苦しい圧迫感が伴っていた。とは言うものの、一度も鈍器で殴られたことはないのだが、多分鈍器で殴られるとこんな感じかなというような嫌な感覚であった。
オレは現実と夢の中を彷徨っていた。とは言うものの、夢を見ていた記憶はないからこの表現も少しおかしい。
要するに寝起きが悪いということだ。いつまでも余韻の中に身を置いていたくてオレは目を開けることを躊躇っていた。
誰かに声を掛けられたとか、身体を揺り動かされたとか、外的要因によって睡眠を中断されたのではない。あくまで自発的に睡眠に終止符を打ったのだが、それは自分の意志かというとそうではない。つまり、目が覚めたというやつである。それなのにいつまでも夢の世界を漂っていた。
首が訴える痛みから、いつものベットで寝ているのではないことは明白である。そこでオレは自分の状況を考えてみた。あくまで覚醒という一方的なものに対する抵抗であるが、何となく釈然としない感じがしていたのだ。
歴史の授業であった。オレは歴史は好きではない。いや、社会科全般苦手だった。正直に告白すると取りたてて好きな授業なんてなかったし、得意科目もなかった。要するにオレは勉強全般には不向きな男であるのだ。特に弁当を食った後の午後の授業は苦手である。その中でも歴史は定年を何年も前に迎えたオヤジが講師として片手間にやっているだけに眠たくて仕方がなかった。午後は睡眠の時間と決めてはいたが、このオヤジの授業は午前中であっても寝ていた。よくもまぁこれだけ眠れるものだと自分でも感心するくらいであった。
いつものように寝ていたことまでは思い出すことができた。
こうやって目を瞑ったまま考え事をするのが好きなオレは更に思考を巡らせた。
そう、確か室町幕府がどうとか言っていた。室町時代なんて大昔の話である。昨日トイレで殴った一年生の名前すら覚えていないオレがそんな昔のことを覚えられるわけがない。まったく不必要でお節介でどうでもいいことである。若干怒りながらオレは迫ってきた睡魔に身を任せた。
机に俯せに寝ると顔に無様な跡が残る。ヨダレまで出てくる時もあるからオレはそのままの体勢でコックリと寝ることにしている。首が前後左右にふらつくが、かえって無意識のうちにバランスを取るのが楽しい。以前は頬杖を突いていたがこれだと余計に首に負担が掛かって寝起きの状態が最悪なのである。だからオレはいつものようにユラユラと微妙に揺れながら眠っていたはずである。
遠い意識の片隅にチャイムが鳴ったという形跡はないから当然今は五限目の歴史の時間である。それなのに物音は何も聞こえてこない。
ようやくオレは長かった長考に終止符を打ち目を開けることにした。この瞬間がちょっとだけ緊張する。以前同じような状態で目覚めた時に周りを上級生に取り囲まれていたことがあった。あの時は居眠りの経験も浅くてついつい本格的に眠り込んでしまい、授業が終わっていたことに気付いてなかったのだ。 その場に引き倒されたオレは五人の二年生から蹴られ続けた。合計十本の足が飛んで来たから避けることも反撃することも出来ず、オレはその場で昼飯に食った弁当の中味を全部ぶちまけてしまったのだった。
多勢に無勢、一度は負けを認めたがそのままでガマンできるタイプではないオレは、その中の一人を執拗に付け狙い隙を見つけて用意していたバットで頭を綺麗にかち割ってやった。勿論残った四人からは後日反撃があったが、これまた用意していた木刀で最初に殴りかかってきたヤツの右腕を叩気折ってやったらヤツらは戦意を喪失したのか大人しく引き下がって行った。それ以来オレには何も言ってこなくなった。
そんな経験からオレは熟睡はしないと心に誓ったのだ。だが、一旦寝てしまえば熟睡か半睡かチョイ睡かなんて区別を付けることはできない。
あまりにも静か過ぎた。
目を開いたオレの前には青空が広がっていた。教室だと思っていたのはオレの錯覚で体育の授業中だったのだ。しかも目の前が青空だからオレは仰向けに寝ていたことになる。
違う。
見慣れた風景ではない。目の前の空は学校らしさがなかった。学校らしい空なんてあるのかと聞かれると返事に困るが学校で見る空はいつも決まったようにのんびりとしていた。隠居ジジイが見つめる空のように全ての時間が止まったようにしか見えない空であった。
だとするとここはどこか。
オレは夢の続きを見ているのだ。早く目覚めないといけない。だって目の前に汚い野良犬が怪獣のようなデカさで迫ってきているのだから。
犬の鼻息まで聞こえるリアルな夢であった。生臭い匂いはその犬から発せられているのだろう。リアル過ぎた。
オレは必死に意識を取り戻そうと試みた。早く睡眠から覚醒しようと焦っていた。
その間にも犬は情け容赦なく近づいてくる。そして、オレの匂いを嗅ぎ始めた。さらに鼻息が強く当たりくすぐったい。
夢だ夢だ。
心の中でオレはオレの脳に呼びかけた。
もどかしい時間が過ぎていく。いつかは目覚めると安心はしているが、それにしても現実はなかなか訪れてはくれなかった。
それにしても、夢の中のオレは奇妙な物体になっていた。いかにも疲れている時に見る夢そのものであった。
花であった。顔全体が花なのである。自分で自分の顔を見ることはできないが、手は二枚の葉っぱになっていたし足は土の中に埋まっているから多分花のはずである。視野の片隅にチラチラと花びらの先らしきものが見える。断言はできないが花なのである。そして、自由が奪われているオレの足は根なのだ。
オレは夢の中の状況を楽しむことにした。だってこんなこと、夢でしかありえないことである。
目の前の汚い犬は目障りでうっとしいが、そのうち目ざめるに決まっている。目覚めるまでの辛抱である。
顔の辺りがむず痒くなったオレは両手を動かそうとした。しかしまったく動く気配がなかった。全然反応が無いのかというとそうでもないが、ゆっくりしか動かない。僅か一p動かすのに半時間は掛かってしまいそうなくらいゆっくりなのである。
土に埋まったままの足はもちろんピクリとも動かない。足の指だけでも動かそうとするが指の感覚は伝わってはこなかった。思い切りよく寝ころんでやろうかとも考えたが寝ころぶことはできなかった。案山子のように立ったままである。
何年か前にオモチャ屋の店先で見た音に反応して踊る花をイメージしてみたが、あんなふうに腰を動かすこともできなかった。
まずい雰囲気になってきた。犬の態度は明らかに『それ』とわかる落ち着きの無さであった。そわそわしている。
おい、まさかお前。
予想は的中した。犬の野郎は片足を上げ、オレに狙いを定めてオシッコを始めた。片足を上げたところをみると、どうやら雄犬のようである。などと分析している場合ではない。ウンチでなかったことは不幸中の幸いではあるが全身にベッチョリとこびりついたオシッコは臭くてたまらない。
案外犬のオシッコは粘るものである。
ガマンしていたオシッコを思う存分出したためか、犬は嬉しそうな顔をしてオレの側から離れて行った。どんな顔が犬の嬉しそうな顔かと聞かれても困るが、ともかくヤツは意気揚々とオレから離れて行ったのだ。
夢ならそろそろ現実に引き戻されてもいいはずである。それなのに、今回の夢は飛び切りしつこい。それから二三時間の間に違う犬が何度も来てはオレの匂いを嗅ぎ、ご丁寧にオシッコをかけて行ってくれた。中には絞り出すようにしてオシッコをしていった犬もいた。オレは犬の本能というのか『なわばり意識』の強さにほとほと参ってしまった。
少なくとも四匹分のオシッコがブレンドされてオレに降りかけられている。花であるはずのオレから発散する香
しい蜜の香りなんてどこかに消し飛んでしまっていた。蜜の香りのする人間も珍しいがそれ以上に四匹もの犬にオシッコを駈けられた男も珍しい。
オレはゆっくりと時間をかけてここがどこなのか探ろうとした。
今までに見た見覚えのある土地ではない。
通学や、遊びに行く時に通過する、そんな場所ではなかった。全く記憶のどこを探っても出てこない土地である。花になったオレの視線は限りなく低いからそう見えるのかもしれないが、それにしても寂しい場所である。上空は何も覆うものがないから広々としているのだが、周りは少し雑草が生えているだけのジメッとした土地である。
ゴミ収集のための場所ではないとは思うのだが、雑多なゴミが散乱していた。半分腐りかけたタンスが放置されてから幾日も経っていることを物語っている。お人好しなおばさんが「やれやれほんとに、困ったもんだ」などとグチりながら掃除に来る場所でもなさそうである。要するに、人々から忘れ去られている場所らしい。
これが大通りに面した賑やかな場所であれば、車や人がひっきりなしに通るから退屈はしないだろう。それに花であるオレの視線は限りなく低いところにあるからオレの横をスカートを穿いた女性が通れば中身はバッチリ見放題のはずである。なのにここにはそんな楽しい経験をさせてくれそうな人通りはない。
二三メーター先に視線を送るとオレとよく似た花が咲いていた。花の名前なんてヒマワリと朝顔くらいしか知らないオレには何という名前の花なのかわからないが、どことなく雰囲気で同類という気がしてくる。
「おい」
オレはそいつに向かって声を出してみた。
動くことは苦手だが、声は出た。
「おいってば聞こえているんだろ」
反応はなかった。心なしかピクンと動いたように見えたが、何しろオレですら一o動かすのに数分かかるのだ、呼ばれたくらいでピクンと反応するはずもない。
しばらくの間オレは呼び続けたが、そいつからの返答はなかった。
やっぱりこれは夢なのだと思うことにした。そうでなければオレだけが花であるはずはない。
「最初はみんなそう思うのさ」
突然話し声が聞こえてきた。声の主は先程から散々オレが呼びかけていた花である。
「何だって」
急いで問い直すがそれ以上の反応はまったくなかった。
「聞こえてるんだろ。何とか言えよ。いくら夢でもこのままじゃ面白くないだろ」
「現実さ」
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